紅茶と私       

 

 

私が初めて紅茶を意識して味わったのは、西宮市の今津小学校三年生の時であった。

その時私は、放課後運動場の片隅の高い鉄棒に飛びつきそこねて、右手の片肘を地面

にぶつけ関節を骨折して、入院していた。阪神甲子園駅の北側にあった、広末外科病

院のこぎれいな院内を、ギブスで固めた右手を吊り下げて歩いていると、若い女性の

看護師さんが詰所から手招きして、ポットからそそいだ紅茶に砂糖を入れて飲ませて

くれた。優しい香りがした。夕方で一般の診療が終わり休憩の時間だったのだろう。

机の上に日東紅茶の黄色い真四角の缶が置いてあった。

 

昭和15年当時紅茶は貴重品で、私は家で飲んだことがなかった。それに砂糖も嬉し

かったので「ありがとう、おいしいです」と大きな声で礼をいったことを覚えている。

 

ところがその頃以後、戦時体制が進むにつれて紅茶などは全く影をひそめ、砂糖や

マッチ、味噌、醤油、木炭などの生活必需品が切符制度となった。隣組制度が強化さ

れ、日常品の配給が隣組単位となり、隣組に入らなければ生きられなくなった。

 

昭和16年、小学校が国民学校と名を変えた頃から、米は配給制となり、食料事情

は急激に悪くなり、紅茶どころではなくなった。12月8日、アメリカ・イギリスと

戦闘状態に入るようになって、病院で砂糖入りの紅茶を飲んだことなど、早くも昔の

良き時代の夢となってしまった。

 

昭和17年4月、日本軍はセイロン島を空襲し、セイロン沖の海戦では、イギリス

の空母ハーミス他、巡洋艦・駆逐艦を撃沈した。この爆撃と空母攻撃の様子は当時、

日本ニユースがこの実際の撮影をしていて、私は映画館で見たことを覚えている。2

月にはシンガポールを占領し、昭南島と名前を変えた勢いで、次はセイロン島を占領

してイギリスの東方へのルートを断ち、ドイツ・イタリアの東方作戦と呼応するとい

われていた。そのイギリス領のセイロン島は世界有数の紅茶の産地として有名だった

ので、私はまた紅茶が飲めるかも知れないと思ったことがあった。しかしその後、太

平洋でのアメリカ軍の反攻が始まり、セイロンの紅茶の夢は吹き飛んだ。そのセイロ

ンは、後に独立して今のスリランカとなった。

 

ポッダム宣言を受諾し、日本軍が無条件降伏をした後しばらくは、紅茶などは夢の

また夢、厳しい食料時代が続いた。が、昭和30年代のなかばを過ぎた頃からは、日

東紅茶、リプトン紅茶などからティーバッグが売り出され、家でも喫茶店でも気軽に

紅茶が飲めるようになった。平和とともに紅茶が戻ってきた、と思った。

 

昭和46年、紅茶が輸入自由化になり、その頃からダージリン・アッサム・ニルギ

リなどのインドの紅茶の産地の名前を耳にすることは多くなったが、その頃の私は

まだ紅茶を飲む時は、茶葉の産地など意識しないで。レモンティー、それともミルク

ティーにするかどうかということで決めていた。

 

昭和61年、ペットポトル入りの紅茶が出た。キリンビールが売りだしたのは、ア

フターヌーンティーを和訳した「午後の紅茶」だった。私は当時オリエンテーリング

競技に参加する時や、ハイキングの時には持ってゆくのが楽しみになった。上品な香

りがして、少し甘みもあって、そんな時の最適の飲み物と思った。その後「午後の紅

茶」は透明な紅茶本来の澄んだ色をしたレモンティーなどをだし、そのペットポトル

を冷やすと暑い時など絶好の清涼飲料になった。普通、紅茶は熱湯で抽出の後しばら

くして冷めると、濁りが出て来る。これを一点の濁りもなく透明で澄んだ美しい色を

保つのも、日本の技術の開発があったと私は聞いたことがある。

 

アフターヌーンティーというのは、イギリスの上流階級の文化として午後に紅茶を

飲み軽食や菓子をとる習慣があったことをいうが、今では一般の人々の社交として、

午後に紅茶を飲む場もそう呼ばれている。

 

私が昼食の後に、紅茶を飲むようになったのは、平成15年頃より大阪堂島にあっ

た紅茶専門店ムジカに立ち寄るようになってからである。中之島にある朝日カルチャ

ーセンターでのエッセーの講座が終わり男性の仲間と食事をとりその後ムジカに行く

と、女性の受講仲間もそこに来て、アフターヌーンティーのパーテイになることもあ

った。時間によっては、当時講師で作家・詩人の井上俊夫先生も立ちよられた。先生

のお宅でもムジカで購入したポットと茶葉で、朝食には紅茶を沸かしているといって

おられた。

 

ムジカは昭和27年、現在のオーナー堀江敏樹さんのお父さん(音楽評論家だった)

が大阪堂島に創業した音楽喫茶であった。ムジカとはラテン語、イタリア語、スペイ

ン語などで音楽を意味する言葉である。昭和40年代、紅茶の自由化に伴い本格的な

紅茶の専門店となり、日本で初めて本来の飲み方であるポットで紅茶を出す店として

有名になる。堂島グランドビル地下1階での営業時代を経て、平成11年にアクア堂島

ビル3階に移り、同じ階にカフエレストランも併設していた。店の一角には紅茶の販

売コーナーがあり、独自のルートで世界各地の産地から直輸入した茶葉の他、ポット

やそれをカバーするティーコージ、茶をこすティーストレーナーなども並んでいた。

 

この店の壁には、古今東西の紅茶の缶が棚いっぱいに飾ってあって、独特の雰囲気

をかもしだしていた。そんななかで、私は多くの種類の紅茶名と説明が書かれている

大きなメニューを見て、あれこれとその日の紅茶を注文するのが本当に楽しかった。

 

 紅茶の世界の三大産地としては、インド・スリランカ(セイロン)・中国があり、

インドを代表するのはまずダージリン茶である。爽やかで上品な渋みがする。茶葉の

収穫時期により、ファーストフラッシュ・セカンドフラッシュ・オータムナルと分け

られる。また、アッサム茶も濃厚なコクと甘みがあって有名である。スリランカで有

名なのはウバ茶で、茶葉が細かく一目で見分けがつく、独特の深い渋みがあり、香り

も強い。緑っぽい香りのヌワラエリア茶やマイルドなディンプラ茶もなかなかの  風

味がある。そして中国の安徽省が原産地のキーマン茶は甘く花の香りがする高級茶と

して有名である。

 

 私は最初の頃、ダージリン茶を主に注文していたが、次第に渋さを求めてウバ茶を

飲むように変わっていった。エッセー講座の仲間も、講座が終わり昼食の後にはいつ

も四,五人はここに集まり、話の花を咲かしていた。そして、茶葉やポットを買っ

て家でも楽しむという人が多くなった。私の家の昼の食卓にもムジカのコージを被せ

たポットが並ぶようになった。ムジカで新しく入荷した茶葉の特別メニユーに、九州

大分の杵築紅茶というのがあり、みんなこれを好んで飲んだことがあった。ムジカで

は「べにふうき」「べにたちわせ」「匂い桜」の三つの種類を出していた。杵築は戦

後に国産紅茶栽培適地として生産が始まっていたが、紅茶の自由化後は生産中止に追

い込まれた。しかし、平成5年阿南さんという農家が、ダージリン系の品種と明治時

代に日本に持ち込まれた紅茶品種「べにほまれ」を交配し、高い香りと濃い紅色の価

値の高い高級国産新品種紅茶を作り出して登録した。栽培量が少ないため「幻の紅茶」

として知られ、貴重な希少価値の高い紅茶で、確かに私も上品な独特の風味を感じ、

こんなにすばらしい国産紅茶があることをムジカで知った。

 

 こうして、エッセー講座の後の楽しみとして、ムジカ紅茶がエッセー仲間に定着し

ていた平成25年の秋頃、この堂島のムジカが閉店するという話が仲間内で流れた。

紅茶で店に集まったとき、顔なじみになっていたオーナーの堀江敏樹さんに聞くと、

この年の10月末にこの店を閉じ、同時に芦屋に新しい紅茶の店を開く、そしてカフ

エ、レストランは併設せずに、茶葉、周辺商品の販売に集約する、という話をして、

「私ももう、かなりの年になったからね」と付け加えた。

 

 堀江さんは昭和11年生まれ、神戸在住の紅茶のスペシャリストで、辻学園、日本

調理師専門学院の講師もしていて『紅茶の本』『紅茶で遊ぶ、観る、考える』などの

著書もある。私に比べたらまだ若い堀江さんが、この有名なティーハウスを堂島から

撤退させるのは残念で勿体無い気がした。

 

 堂島ムジカが撤退した後、エッセー講座仲間の有志は昼食後、コーヒ店に集まるこ

ともあったが、ムジカとは雰囲気が違ってどこか落ち着かなかった。梅田に近い四つ

橋通りにあるロンドンティールームに集まったこともあった。この店は鉄鋼関連企業

を脱サラしたオーナーの金川宏さんが四年間、ムジカの堀江さんの下で働き紅茶を学

んで、始めただけあって、味わいは間違いなく本格的であったが、紅茶だけ単品で注

文すると、700円以上と少し高く、堂島ムジカほどの回数で行くことはなかった。

神戸の元町にムジカの支店があって、私は妻と神戸に買い物に出たときにここで、コ

ージを被せたポットから紅茶を注いで飲み、茶葉も調達するようにしていた。

 

 今年平成28年の4月になって、はじめて芦屋のムジカに妻と新しく茶葉を買うた

めに訪れた。阪神電車芦屋駅を降りて南に進み、阪神高速3号神戸線沿いに東に30

0メートルほど行くと北側に店があった。ドアを開けて中へ入ると、壁に貼られた産

地の茶園の絵や、棚に置かれた各種の茶葉の独特の包装紙などを見て、「堂島ムジカ

がよみがえった」と思った。狭い店内だが多くの客がいてなかなか盛況のようであっ

た。堀江さんの息子さん勇真(ゆうま)さんとその家族か親族らしい人たちが忙しそ

うに応対していた。「あぁ、この店はもう息子さんに任しているのだな」と思った。

私は勇真さんに「ウバ茶はおいてないのですか」と聞いた。「新しく入るのは秋にな

ります。古い茶葉もいくらかは残っていたと思いますが、店には出していません。そ

れ出してきましょうか」「いや、秋まで待ちます。今日はダージリン茶にします」

 

 店の女性がダージリンの袋を包んで渡してくれた後、「よかったら、紅茶を飲んで

帰ってください」とポットに入れた紅茶とクッキーを持ってきてくれた。二階の屋根

裏部屋でこの紅茶サービスをしているらしいが、妻が階段を上がるのが大変だと見越

して、一階のカウンターまで運んでくれたらしい。本格紅茶ムジカの味わいが確かに

した。

 

 外へ出て、店の表の写真を撮っていると堀江敏樹さんが出てきて、頼んでもいない

のに私のカメラで私と妻の写真を撮ってくれた。そして、「芦屋に店を開いて、本当

に良かった」と、しみじみとした言葉つきでいった。それから、店の裏にある庭に私

と妻を案内して、小さな庭の周りいっぱいに咲いている色とりどりの花を見せてくれ

た。「この花は全部、使った紅茶の茶葉の養分で、育っている。綺麗でしょう」と、

いった。花の種類の名前は分からないが、どの花も生き生きと色鮮やかであった。

 

 紅茶の茶葉が花を咲かせる。すばらしいことだ。私、やがて85歳、妻、もうすぐ

80歳、紅茶を飲み続けたら、私たちの人生にも花が咲くのだろうか。帰りの阪神電

車の芦屋駅プラットフォーム、真下は芦屋川の流れ、北には連なる青い山脈。

 

「紅茶を飲んでも、これからもう花が咲くことはないだろうなぁ」と私がつぶやいた。

「紅茶の茶葉であんなに綺麗な花が咲くとは知らなかった。使った茶葉を鉢植えに入

れて、マンションのベランダで花を咲かせてみるわ」と、妻がいった。

 

                   (平成28年6月5日)

 

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宙 平

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