From Chuhei
 
   
  

毎月1篇        

 

 

 

 もう17・8年前になるだろうか、大阪朝日カルチャセンター(旧朝日新聞大阪本社ビル内)

のエッセー教室に新しく入ってきた受講者の人が、最初の挨拶のときにこう言った。

「私がこのエッセー教室に入ったのは、肩書きが欲しいからです。その肩書きはエッセイスト!

その肩書きの入った名刺を作るためにこの教室に入ってきました」

 

 私はずばりと本音を言ったその挨拶に驚きながら、定年退職年代の人にとってなにか格好の

良い肩書きがついた名刺が欲しいという気持ちは分からないでもない、と思った。

 

 その人は約1年足らずで教室を去ったのでエッセイストの名刺を作り、活躍をされたか,ど

うかは分からない。が、しかし、エッセーを書く事のみを職業とする人をエッセイストと呼ぶ

のだと考えるならば、そんな人は何人いるのだろうか? 各界の有名人、特別な技能、知識の

ある人、特殊な体験をした人などがエッセーを書いて出版すれば確かに人気も高まり本が売れ

る場合がある、しかし、それは本当の職業エッセイストではない。別に本業を持っている人が

殆どである。それでは、趣味として、書く事が好きで文章を書いている人をエッセイストと呼

ぶならば、ウェブにブログを出している人、新聞や雑誌に文章を投稿する人、自分史などを自

費出版する人も含めると実に多くの人がエッセイストである。

 

 勿論、文章は全てエッセーではない。しかし今日では、エッセーと言われている文章の範囲

はかなり広い。

 

 エッセーという言葉は1580年フランスの思想家モンテーニュが著した『エセーEssais

(随想録)からきている。この言葉はこころみ、試論という意味を持っている。やがて、この

著述はイギリスにも影響を与え、フランシス・ベイコンが『エッセイズEssays』という本を出

し、その後チャールス・ラムの『エリア随筆Essays of Elia』などが出るに及んでエッセーとい

う文学ジャンルが確立されていった。そして今、エッセーというとアメリカなどでは小論文の

ことをさす場合もある。一方日本では10世紀末の清少納言の『枕草子』、その後の鴨長明の

『方丈記』吉田兼好の『徒然草』など優れた随筆作品が生まれた。これらは花鳥風月の自然や

日常生活の身辺雑記などを主に書かれたものであったが、今日に至り多様化する社会動向を反

映して随筆も複雑多岐な内容が書かれ、理論的な要素が加えられる作品も出てきて、エッセーと

随筆と作文の区別が付きにくくなっている。

 

 長年にわたり朝日カルチャーセンター(大阪・京都・奈良)とNHK大阪文化センターのエ

ッセー教室の講師を担当され、私も14年にわたり指導を受けた、詩人であり作家であった井

上俊夫先生(故人)はエッセー教室の案内文にこう書かれていた。

 

「エッセーは随筆、生活記録、自分史、読書感想、社会時評など自由で可能性の多い分野です」

そしてエッセーはこうした分野を包括するものだと考えておられ、出来たらここに「短編小説

(一部)」と「散文詩」という分野も入れたいくらいだ、とも言われていた。

 

 私はエッセイストの肩書きが欲しいと、思ったことはなかったが、平成4年10月、自由に

文章を書く事なら出来るかもしれないと思い、井上先生のエッセー教室の講座を受けることに

した。当時受講者のしなければならないこととして、月1回作品提出日に作品を提出する(4

00字詰め原稿用紙2枚分、または4枚分とされた)。そして次回に提出作品の中の「誰の作

品は誰が」と指名されて感想を述べること。さらに、先生の選ばれた本を3ヶ月に2冊を読み、

指名された受講者が感想を述べることであつた(本は予め先生が書店に必要な冊数の取り寄せ

を依頼されていて、受講者はそれを購入した)。

 

 私はその時以来、毎月1篇エッセー作品を書いてきた。年間12篇、23年7ヶ月経った現

在283篇を書いたことになる。最初は月に1篇ぐらいのことなら、たいしたことはないと思

っていたが、書き続けるとなるとこれは大変なことだと分かってきた。「次はなにを書こうか?」

ということが、私の頭の中を常に支配した。旅行・観劇・会合などすべての行動の前には「これ

でなにかエッセーが書けるか、どうか?」をまず、最初に考えた。 

 

 平成7年1月17日は火曜日でエッセーの作品提出日だった。私は作品を用意していた。が、

早朝5時46分、轟音とともに身体がベッドの上でバウンドした。横のタンスの上部が飛んで

身体を飛び越えた。西宮香櫨園のマンションは倒れなかったが、どの部屋も万物落下で埋まっ

た。私は咄嗟に思った。

 

《書ける材料が出来た! 作品を書き換えよう。この規模の大地震なら、エッセーを2篇か3

篇は書けるぞ!》   

 

 私はまず居間の机の上にあったワープロが床に落ちて、落下物の中に埋もれているのを拾い

上げた。当時はカシオのワープロでエッセーを書いていた。水道やガスは長い間止まったまま

であったが、電気は比較的速く復旧した。私はすぐに『地震エッセー』を書いて、不通だった

電車が通るようになった駅まで歩き大阪の朝日カルチャーセンターまで届けた。

 

 エッセーを書く目的で一人の旅行もした。広島の呉に泊まって、大和ミュージアムを訪れ、

江田島の旧海軍兵学校跡の海上自衛隊第一術科学校を見学し、映画『男たちの大和』のロケセ

ットを尾道で見学して『戦艦大和紀行』というエッセーを書いた。また徳島の板東町へ行き、

映画『バルトの樂園』のロケセットを見学し映画も見てエッセー『板東捕虜収容所』を書いた。

 

 井上先生は軍隊で通信機器を扱っておられたこともあり、機器の扱いに強く、パソコンで作

品を書く事をいち早く取り入れられた。そしてエッセー教室受講者の内、パソコンを使う有志

で、メーリングリストを立ち上げられた。ヤフーのリストを利用し「窮鼠村」と名付け、自ら

村長となられた。私もエッセーを書くため、ワードを使うようになり、「窮鼠村」に入った。

最初は朝日カルチャーセンター大阪教室の一部の受講者だけであったが、京都・奈良・NHK

大阪のエッセー教室受講者なども加わった。先生はエッセーを書けばメーリングリストに、添

付または貼り付けて送るように言われていた。お陰で他の教室の受講者の作品を読んだり、私

の作品の感想を聞いたりすることができた。その後、「窮鼠村」は先生が亡くなられ、やがて

ヤフーがリストの運営から撤退したため自然に解散となった。

 

 平成6年の創立時から入会していた西宮市シルバー人材センターに、パソコンの同好会が出

来て、そのメーリングリストに、私は毎月1篇書くエッセーを投稿していたところ、当時会長

だった吉川さんと、長老の清水さんから「ホームページ『e-silver西宮』を立ち上げることに

なったので、そのエッセーのパートに貴方のエッセーを掲載していってほしい」と要請があった。

 

 当時私はメーリングリストには、ハンドルネーム 宙平 又は空色宙平を使っていたので、

そのままの名前で掲載されることになった。このホームページのエッセー集には他の会員の作

品も含め現在158篇の作品が掲載されている。このホームページは外部にも広く知られ、私

のエッセーについては、朝日新聞・神戸新聞・NHKニユースセンター9時などの取材を受け

たこともあった。

 

 朝日カルチャーセンター大阪のエッセー教室は、その後は軒上泊先生そして大森亮尚先生

と講師の先生が変わられ、受講者の顔ぶれも人数もどんどん移り変わっていったが、私の毎

月1篇の作品提出は《もうこれ以上書き続けるのはきつい! 書く事はもうない!》といつも

思いながらも、続いている。今年の10月にはエッセー教室参加24周年となり、11月には

満85歳となる。

 

 今年3月のある日、「徒然なるままに」私はパソコンに向かって、エッセーを書こうとしたが、

「月1回書かねばならぬ」という気持ちが空回りして、「ぜひこれは書きたい!」と沸々と盛り

上がる気持ちが湧いてこない。《とうとう、書く材料が枯渇してしまったのではないか? もう

書けない!》とパソコン画面を見つめたままでいるうちに、目が疲れて眠ってしまった。 と、

声が聞こえてきた。

 

「貴方も『もう書けない』などと思うようになりましたか。そういう歳になったのですね。

しかしね。長いあいだものを書いていると、そう思うことは1度や2度はあるのですよ」

 

《あっ! 亡くなった井上俊夫先生の声だ!》声は続いた。

 

「貴方も知っているでしょう。すばらしい文章を、勝手に書いてくれる原稿用紙がないかなぁ?

 と言っている私の文章を……。そんな用紙はありませんが、私も筆が進まない時があったのです。

ところが、そんな状況を懸命になってなんとか乗り越えると、反対に本当に書きたいこと、書かね

ばならぬことが湧き出て来るようになるのです。私も『たとえ蟷螂の斧のような書物となろうとも、

今考えている本はあくまで書かねばならぬ!』と思い、命ある限り体験した戦争の不条理さや、そ

の実体を伝えるために『八十歳の戦争論』に続き『八十六歳の戦争論』を書き続けなんとか書き終

えてから倒れました。出版日にはもう私は死んでいたのですが、本は貴方がたに届けられたと思い

ます。また当時中学3年生の孫、奈津美との対話形式で書き続けた『祖父と孫との戦争論』は「窮

鼠村」に第8話まで送ったところで、寿命が尽き絶筆になりました。が、書きたいことがまだまだ

一杯残っています。

 

 人生を生き抜いて来た人は、誰でも書きたいこと、伝え残したいことが必ず何かは一杯あるので

すが、それは普段は意識されずにいます。それを、自ら掘り起こして、ほかの人々に興味を持って

読んでもらえる文章にして書くのが、エッセイストです。自分の心の中にある本当に書きたいこと

に意識を集中しなさい! 命が尽きるまで書き続けるのです」

 

 目が覚めて、画面が消えて真っ黒になっていたパソコンに向い、マウスをクリックすると、なん

と、モンテーニュの古めかしい『エセーEssais』の本の画像が浮かび出てきた。

 

《そうだ! エッセーを書き始めた時の初心に帰ろう。そして毎月1篇を書いている、そのこと自

体を書いてみよう!》私の指がキーボードを、ぽつぽつと叩き始めた。

 

                         (平成28年3月14日)

 

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宙 平

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