From Chuhei
   
  
下の写真はNHK連続テレビ小説「あさが来た」の主人公のモデル広岡浅子と夫信五郎。
と、ニチメン(現双日)の前身会社日本綿業の社屋です。(画像は大同生命保険株式会社提供)
  
  

年賀状の風景      

 

 

 年賀状の風景は悲しみから始まる。年末になって、喪中のはがきが舞い込みはじめ、それが

私と同年輩の人の訃報であると一層深い悲しみとなる。

 

 昨年10月7日、私の従兄弟、渡利陽が83歳で亡くなった。60年来毎年の年賀状が続い

ていた間柄である。昔、丹後の宮津藩の藩士の家に小嶋家と渡利家があった。両家は養子縁組

などで、お互いの家を維持して藩幕時代を生き抜いてきた。私の父の弟、叔父夫婦は夫婦養子

としてその渡利家を継いだ。陽はその長男であり、昭和7年1月の生まれであるが、私は小嶋

家の長男で昭和6年11月の生まれである。その時両家は西宮市今津の家に住み近所同士であ

った。そして、彼とは小学校も同学年で、本当の兄弟のようにして過ごした。が、西宮空襲で

両方の家は跡形もなく焼失した。彼は空襲の直前に母方の里、宇和島の近くに疎開して学校も

一時灘中から宇和島中に転校していたが戦後私が一人、はじめて宇和島まで旅行して、彼と共

に関西に帰ってきた覚えがある。

 

 その後、東京に住む彼と、法事や墓参、小学校同窓会などで会っていたが、4年前より連絡

が出来なくなった。一昨年の年賀状は、彼の奥さんの代筆で年賀の言葉が添えられているだけ

であった。

 

 彼はかつてニチメン(現双日)の社長をしていた。この会社の前身日本綿花は、今NHKの

連続テレビ小説「あさが来た」の主人公のモデル広岡浅子の夫信五郎が設立発起人となって作

った日本貿易立国の草分け的な存在である。当然、彼の訃報は新聞に報道され、同窓会の仲間

から電話があった。しかし、亡くなったのは心不全ということと、葬儀は近親者だけでささや

かに行ったという以外、状況は私には分からなかった。

 

 12月になって奥さんから喪中のはがきがきた。そこには4年近くに及ぶ大変厳しい闘病が

続いていたこと、しかし、懸命の介護により、穏やかに旅立って行ったことが書かれていた。

今まで連絡のなかった理由が分かった私は返信を書きながら、私も死ぬ準備をしなければなら

ない年齢になっていることを改めて実感し、なんとかピンピンコロリで逝かねばならないとの

想いを一層深めた。

 

 郵便局の前に「年賀状」の旗が立ち、12月15日から郵便ポストに年賀状口が作られると

なると、年賀状を急げ! 急げ! と迫られている様な気になって落ち着けない。そこで、年

賀状を買いに出る。それがまた、郵便局で買うと1枚当たり52円だが、金券ショップでは5

0円から47円ぐらいの値で売り出している。なぜこんなことになるのか?  どうやら郵便

局の年賀状販売目標の割り当てにあるらしい。郵便局のアルバイト職員でも、一人1000枚

は売らねばならならないし、総務主任ぐらいのベテランになると一人最低10000枚は割り

当てられる。それが最近ではなかなか売れない。パソコンやスマホが普及し、用紙やインクの

いる年賀状から、映像で送る年賀状で済ます人が年々増えてきているからだ。10年前、43

億5千5百4万枚だった発行枚数は、今年はおよそ34億枚に減っている。しかし、郵便局員

の一人当たりの販売目標は減らない。金券ショップのインターネットで見ると200枚完封や

4000枚の完箱は40円で買い取る。バラの1枚当たりの買取りは38円だ。郵便局員は割

り当てられた年賀状をそんな値で売りに行く。結局差額は自腹を切ることになる。問題となっ

ている自爆営業である。この季節、各地区の郵便局の本局の前では寒風の中、郵便局員が机を

持ち出して、外で年賀状を売っている風景が見られる。これを見る度、私には郵便局員受難の

季節が来たと思えてならない。私は神戸三宮の高架下の金券ショップで200枚完封とバラ3

0枚を48円で買った。

 

 私は、郵便局の年賀状の枚数を20年ぐらい前から「如何に減らすか?」が目標となってい

た。それより前の若かった時は、反対に「如何に増やして新年の喜びを共有するか」と350

枚位の時もあった。今、私の筆まめ住所録に残っているのは、180、妻の先で80であるが、

実際に出したのは私で135枚、妻で64枚、金券ショップで購入した枚数を下回った。喪中

が増え、電子年賀がふえ、高齢のために年賀状中止宣言のあった先もあり、減少傾向にあるこ

とは間違いない。若かった時は、高齢になって年賀状を中止することなど全然考えたことはな

かった。しかし自分がその年齢に達すると、年賀状はもう止めにしたい気持ちがよく分るよう

になった。

 

 同じ年輩の高齢の人に聞くと、文面の中で「来年からは中止します」と宣言する人もおれば、

年賀状としての発送は一切止めて、受けた年賀の先には寒中お見舞いで返事をするという方法

を取るという人もいた。私は毎年必ず減らす努力をしながら、漸減を続けて最後は電子年賀に

切り替えて行く方針である。

 

 私の属する西宮市シルバー人材センターのパソコン同好会では、年末に勉強のためそれぞれ

工夫を凝らした年賀状(クリスマスカードも)を会に電子メールで送り、オフ会でその品評会

を開く。印刷をしないでそれで年賀が済ませるので大いに助かる。実際の電子年賀は大晦日、

NHK紅白歌合戦が終わった時に送ることにしているが、まだ数は少ない。

 

 元日、配達された年賀状を受け取ったとき、今一番気になるのは、出した先と受け取った先

のミスマッチである。今年も1月2日時点で「あっ!この人には出してなかった!」という先

が3件あった、他に予期してなかった新しい先が1件、住所が変わっていて帰ってきた先が4

件あった。高齢による中止宣言は2件であった。個人からの年賀状で、今まで会ったことがな

いが、相手のことはわかっているという先が、今年も2件あった。

 

 元巨人軍球団の代表もされ、野球関係の著作家として知られている山室寛之さんからも、ま

だお会いしたことのないお一人として今年年賀状を頂いた。今、戦中から戦後にかけて日本の

野球が直面した苦労についてあれこれ取材をされている。私が「e-silver西宮」のホームペー

ジのエッセー集に空襲直後の甲子園球場の状況や阪神の農場で働いていた呉昌征選手のことな

どについて書いているのを、朝日新聞の記者からの紹介で、問い合わせがあり、私も手紙を差

し上げたからである。山室さんがどんな作品を、発表されるのか大いに楽しみにしている。

 

 もうお一人は、香川県に在住されている小西忠彦さんである。2年前に、戦時中に「西宮航

空園」でグライダー訓練をしたことが忘れられず、その当時のことを調べられたが分からなか

った。西宮在住の娘さんがネットで私のエッセーを知り、西宮市シルバー人材センターに問い

合わせられ、西宮北口にあった広大な施設「西宮航空園」の私の記憶をお知らせしたが、まだ

お会いはしていない。が、年賀状の交換は続いている。

 

 小西さんは18歳の時に久留米の歩兵第48連隊に入隊され、戦後は警察官をなさっておら

れたその体験で見聞きしたことを、エッセーにして時々送ってきて頂く。年末に送ってこられ

たのは、あの朝鮮戦争の時に、日本陸軍航空軍曹として活躍した日本人元航空兵が韓国空軍中

尉となり、北朝鮮のミグ戦闘機と何度も空中戦をしていた事実を、警察官時代に知る。という

大変興味深いエッセーであった。原稿用紙に手書きでびっしりと書かれた文章を読んで、いつ

も私は小西さんのエッセー作成に対する強い意欲に感服している。

 

 こうして今年、年賀状の風景は郵便局や金券ショップだけでなく、離れて暮らす知人の様子

とその背景などを思い出させ、私の頭を走るように巡って早くも過ぎていった。

 

《年賀状を大分減らして良かった!》私はパソコンにつながるプリンターから余って出せなか

った年賀状を取り出し、はがきモードから切り替えてA4の用紙に戻した。年賀状に描かれて

いるイラストの猿が、淋しそうな目で私を見つめた。《そうだ、亡くなった従兄弟、渡利陽も

申年生まれだったなぁ!》

 

 そのとき突然、渡利陽の声が聞こえた。

 

「おーい! 年賀状はなぁ、大脳の海馬を刺激して、老人ボケを防ぎ、うつ病を予防するのだ。

減るのは仕方がないが、やめたらあかん、やめたらあかんぞ!」

 

                      (平成28年1月4日)

 

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宙 平

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