東北二大祭り (秋田竿灯 青森ねぶた)
2008 年8 月2 日より6 日まで東北地方を旅行 二大祭りを見物した。
祭り団扇 Pacific Venus 船上 地元有志による演技
秋田竿灯祭り
竿灯は、お盆を前に邪気や病魔を払い、身を清めるねぶり流しと五穀豊穣の願いが込められた伝統行事として、宝暦年間(1751−63)から長い歴史を重ねてきた。今では秋田を代表する夏祭りとして毎年地元の人のみならず全国からの客を集め8 月初め盛大に実施されている。
祭りの状景真夏の照りつけた太陽もようやく沈んだ夕暮れ 街のどこから出てきたのか差し手に支えられた提灯の行列、笛や太鼓を奏でる囃し方の草履の地面を擦る音が見る間に大きくなり老若男女の群集となって会場となる大通りを埋め尽くす。
その時差し手の肩越しに揺らめいていた提灯が一斉に立ち上がった。
合図とともに目の前で踊り始める稲穂を模った提灯の光の乱舞は筆舌に尽くしがたい印象的な風景であった。
夏の盛りの、ひとしきり照りつけた太陽も沈んだ夕暮れ、差し手の肩越しに支えれた稲穂を表わす提灯、笛や太鼓の囃し方、行列の人々の足音が大きなうねりとなって会場に溢れ出す。
日暮れて時好しとの合図の下、差し手の肩越しに揺らめいていた提灯が、稲穂となって一斉に立ち上がる。
差し手、囃し方合わせて3000 名の演者が繰り出す800m の大通り各所で繰り広げられる光の宴の美しさは筆舌に尽くしがたい感がある。
大若から幼若まで(成年から小学低年にいたるまで)年代、体格に応じて日常から修練するそうだ。
差し手は竿灯を持ち上げ 流し(次の差し手が竹を接ぎやすいよう支える)平手、額、肩、腰などにのせてバランスをとりその姿を持続し観衆にアッピールする。
提灯は雨によって貼った和紙が溶けないように油が表面に塗られており提灯も倒れたときの為、下部の両脇に空気を通す孔がある。
竿灯の明かりは電球でなくすべて火を灯した蝋燭であり、強風であふられたり演技の失敗で倒れたりして稀に炎上することがあるとの事である。
竿灯大通(山王大通)は秋田市の目貫通りで祭り中夕方6 時半から交通遮断され中央に観客用の桟敷が設営され左右二面よりそれぞれ竿灯の演技を鑑賞する。
提灯の模様は竿灯を出す市内各町の特有の紋章、参加団体、スポンサーの名前が載せられる。
昼竿灯、妙技会 竿灯祭りの期間 公園でそれぞれ技を競い合う。

祭り
竿灯の行進
青森ねぶた祭り
青森ねぶた祭りの起源は七夕祭りの灯篭流しの変形であろうといわれているが確かではない様だ。中国から渡来した[七夕祭り]と古来から津軽にあった習俗と精霊送りなどの行事が一体化して紙と竹、蝋燭が普及すると灯篭になりそれが変化して人形、扇ねぶたになったと考えられている。
初期のねぶたの形態は[七夕祭り]でそこに登場する練り物の中心が(ねぶた)と呼ばれる灯篭であり七夕祭は7 月7 日の夜に穢れを川や海に流す禊の行事として灯篭を流して無病息災を祈願した。これが[ねぶた流し]と呼ばれ現在の青森ねぶたの海上運行に繋がっている。
[ねぶた(ねぶた。ねふた)]という名称は東北地方を始め、信越地方[ネンブリ流し]関東地方[ネブチ流し。ネムッタ流し]等の民族語彙分布と方言学から[ねむりながし]の眠りが[ねぶた]に転訛したものと考えられる。
青森市における ‘ねぶた’の最初の記録は天保13 年[1802 年]の(柿崎日記)に 7 月ねぶたなし当年七夕祭は子供ばかりで、町内よりねぶた一切不出という記述がある。
この記述からも、ねぶたは町内単位で作られ子供たちも参加して毎年行われる行事で七夕祭の性格を持っていたことが窺われる。
このように現在に受け継がれたねぶたは大型化し毎年22 台―24 台製作されその費用は製作、運行など祭り期間の経費を含め一台当り2000 万円といわれている。
更に町内では子どもねぶたという小型のねぶたが70 台前後製作され一部は大型ねぶたとの合同運行に参加するなど市内全域でまつりが行われる。
大型ねぶたは費用が掛かるため地域では支えきれずスポンサー企業との共催に頼らざるを得ない状況のようである。
ねぶたの照明に発電機を搭載するなど真に大掛かりであり跳人[はねと、正装したねぶたの随行者]も市民ぐるみ、企業ぐるみの参加でもある。
所謂お祭り騒ぎになり祭り本来の意義から脱落しているとの感もあるが電飾に映えるねぶたの姿は美しい。

‘ねぶた’の状景
昼の‘ねぶた’


ねぶた
Pacific Venus 船内盆踊り
敦賀港

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